真面目に丁寧に見ているとは言いがたいのですが……というか、予約を入れながら再生している時は画面を見ておらず音だけ聞いていたりするわけですが、D.Gray-manをほぼ全話見ています。
今日は、数日遅れで第10話「不幸な女のイノセンス」を見ていたのですが、安定感のある傑作ぶりについつり込まれて見ていました。そして、エンディングで脚本吉田玲子の文字を見て、さすが安定感のある優れた良い脚本だと大いに納得したわけですが……。
今回の見所は…… §
(画像公開ポリシー)
今回の主な登場人物は、この3人です。
左がリナリー、中央がミランダ、右がアレンです。
リナリーとアレンは、悪魔と呼ばれる兵器を破壊する役割を背負ったエクソシストと呼ばれる立場にある者です。そして、中央のミランダは一般人ではありますが、イノセンスと呼ばれる超常のアイテムに適合してそれを発動させる力を偶然持ち合わせています。画像背景の時計が、実はイノセンスであり、ミランダの明日など来て欲しくないという願いに応えて同じ1日が繰り返される日々を作り出しています。
この3人を見れば一目瞭然ですが、リナリーは美少女です。一方、ミランダはまだ若い女性ではありますが、どこにも美少女らしさはありません。性格的に外見的にも。けして、見かけは美人だが性格は悪いというタイプではないのです。
3人の中で唯一の男性であるアレンが、誰に対して注目するのか、これを見る限りどう考えてもリナリーということになります。
これが常識的な受け止め方でしょう。
しかし、異常状態に追いつめられたミランダは、助けるべき存在であり、そして助けるに値する存在です。つまり、自分で自分の面倒を見られるリナリーと違って、ミランダは助けられる必要があるのです。
ここが最も重要なところですが、追いつめられて過剰に反応したり、過激な行動に出たり、厭世的な考え方を持っているとしても、ミランダはけして悪い女性ではありません。一生懸命生き、そして幸せになりたいと願う積極性のある女性なのです。
そのような女性に対して、美醜は問題にせず、アレンは積極的に救いの手を差し伸べます。
これは、男として取るべき1つの理想的な態度と言えるでしょう。
困っている女性には手を差し伸べるのが、1つの夢想的かつ理想的な男性の騎士道精神というものです。
ここで描かれたものは、まさにそのような男性の理想像そのものです。
そして、けして美人には描かれなかったミランダは、そのような騎士道精神の受け手と呼ぶに値する1人の人間として正しく描かれているのです。彼女の根底には、それを受けるに値する高貴な品のある心が存在するのです。
これだけでも見事なものです。
しかし、話はそこで終わりません。
リナリーとアレンの会話の中で、アレンの身の上話が語られますが、そこではアレンもミランダに負けず劣らず苦労していることが明らかになります。
ここで、ミランダは立場は変化します。それまで、不幸な私は助けられるのが当然という立場でした。しかし、アレンの身の上が語られた後は、同じ苦労を知る者として手を差し伸べられた……という立場に変化するのです。
ここでミランダは、アレンのように強く生き、他人の救いの手を差し伸べられるという可能性が示唆されます。
つまり、ミランダが生きるべき未来の可能性まで正しく提示されているのです。
全く誤解してました §
このD.Gray-manという作品、アニメ化される前は本屋で単行本を見ることがありましたが、その当時の感想は「鋼の錬金術師の二番煎じ?」というものでした。
しかし、違いました。
鋼の錬金術師はアニメを数回見ただけなので比較できませんが、全く別物であることは間違いないでしょう。
またアニメを見始め手から、悪魔やエクソシストという言葉も、本来の意味ではなく別の何かに与えられた名称に過ぎないことが分かり、漠然とした印象と中身が決定的に異なっていることも分かりました。
登場人物達も深みがあって、魅力的な者達ばかりです。
特に主人公アレンの魅力は大きいと言えます。対悪魔武器の腕と心に深い傷を持ち、優しさを厳しさを持って悪魔とそれに関わる人間達に向かい合います。彼は、たいていの不幸を受け止めることができます。
神田の頑なさや、リナリーの美しい足を使ったイノセンスも魅力がありますし、黒の教団のおかしな人たちも人間的な魅力があります。
一方、敵側の千年伯爵も味のあるネーミングです。
漠然とした印象から言えば、科学と魔法の境界領域の時代をベースにした作品群は、鋼の錬金術師以後に増えた感がありますが、その中でもかなり突出して優れた作品としてカウントして良いのではないでしょうか。